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2015-04-30

薩摩藩の家格とは?〜西郷隆盛と中村半次郎の逸話も

2015-04-30
薩摩藩は75万石の雄藩で、総人口は約70万人、そのうち約20万人、約4割が武士という、日本一武士の割合が多い藩です。
薩摩藩士たちの身分は、世襲制の家格によって階級がわかれていました。


薩摩藩の家格



薩摩藩の家臣たちの家格は、10の家格に分かれていました。
[大身分(上士)]
御一門(一門四家)・・・外城を持つ領主(私領主)。島津本家と親戚待遇
一所持・・・外城を持つ領主(私領主)
一所持格・・・外城を持つ領主(私領主)
寄合・・・一門、一所持の次男や三男が立てた家柄
寄合並(寄合格)

[平士(下士)]
無格・・・故あって嫡家相続を自体した島津家の本流
小番・・・他藩の「馬廻り役」相当
新番・・・正德三年に新しく設けられた家格
御小姓組・・・他藩の「徒士」に相当

ここまでが城下士↑
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与力(座附士)・・・准士分。各座付属の士である。(※座=役所のこと)

ここまでが士分↑
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足軽・・・士分に準ずるもの
外城士・郷士・・・江戸中期より郷士という
家中・・・私領主(御一門、一所持、一所持格)の家臣。陪臣

「忠義公史料2」によると文久三年(薩英戦争ごろ)の記録では、御一門(四家)と一所持は21戸、
一所持格は41戸、寄合は63戸、寄合並は11戸、無格は2戸(亀山、山家家)
小番は760戸、新番24戸(一代小番、一代新番は御小姓組に含まれる)、御小姓組3094戸、総勢4000戸となっています。



小松帯刀は「一所持」、大久保一蔵、西郷吉之助は「御小姓組」

薩摩藩の家格は、大枠で士分の階級で「城下士」「外城士(ふもと郷士)」「在村郷士」に区分されます。
その「城下士」は鹿児島城下の藩政の支配を受けていた武士です。

「御一門」は島津本家が断絶した際に跡継ぎを出すといった、徳川家の御三家と似たような役割を持ちます。
重富島津家、加治木島津家、垂水島津家、今泉島津家の四家からなり、篤姫が出た家である今泉島津家も御一門の家格です。
寄合並までが上士で、家老を排出できるお家柄です。
ちなみに、小松帯刀は「一所持」でした。
同史料によると、小松は日置郡吉利郷3015石あまりを有していたようです。

大久保一蔵、西郷吉之助は「御小姓組」です。
大久保は文久元年11月には一代新番に、西郷は元治元年4月には一代小番になっています。(一代はその代限り)



西郷「この芋は、苦労して育てた誠の心がこもっている」

また、薩摩藩では、城下の外にも武士が住んでいました。外城士・郷士たちです。
城下士たちは、外城士や郷士を「一日兵児(一日武士で一日農耕をする兵児)」といって馬鹿にしたりもあったそうです。
また、外城士も在村郷士を「唐芋郷士(芋しか食べられない郷士)」といって侮蔑していたそうです。

そういえば、中村半次郎が西郷吉之助に手土産に唐芋を持ってきて「共にくわえてほしい」とお願いした話で、西郷の弟が「唐芋侍め!」とバカにしたところ、
西郷は「自分(半次郎)が汗水たらして収穫したもんじゃ。誠がこもっとる。おいはどうしてこの篤か志に報いようかと考えとる」といってたしなめたとか。

中村半次郎の出自は城下士なので、西郷の弟もそのような態度になったようですが、さすが吉之助さぁですね。
多くの人に慕われるところは、こんなところなのかなっと思わせる逸話ですね。



・「鹿児島県史料 忠義公史料 第2巻」鹿児島県維新史料編さん所 1975年
・「図解で迫る 西郷隆盛」木村武仁 淡交社 2008年
・「九州・菊地一族の集大成西郷隆盛」平山繁信著 文芸社 2002年

 
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