136年前の明治11年5月14日午後8時、石川県士族島田一郎らによって、紀尾井坂の変で倒れました。
その直前、彼を訪れた福島県令の山吉盛典に、今後の明治の将来について、話したとされます。(「済世遺言(さいせいいごん)」)
ちょっと長いですが、徳富蘇峰の「近世日本国民史 明治三傑」から、その内容を紹介したいと思います。
この内容は山吉盛典の記録によるものだそうです。
大久保利通が最期に残した将来の構想
死ぬ直前の朝、帰ろうとする山吉に対し、「大久保はまだ話したいことがあるから、ちょっと待て」といい、とどめます。話したいこと、それは、今後の明治期の将来の構想についてでした。
内務卿曰く、
「某 出仕未だ遅からず、暫く止まれ、猶継ぐべきべきものあり」と。是に於いて止まる。
内務卿曰く、
「過ぐる日離宮に於いて殖産のこと已に談示に及びたれども、其の意を尽くさざる処ありて、地方官の貫徹せざれども、今朝の面晤は幸ひなれば、意中残らず告げんとするなり。
そもそも皇政維新以来已に十ケ年の星霜を経たりといえども、昨年に至るまでは兵馬騒擾、
不肖利通内務卿の職務の挙がらざるは恐縮に堪へずといえども、時勢已むを得ざるなり。今や事漸く平らげり。
故にこの際勉めて維新の誠意を貫徹せんには三十年を帰するの素志なり。
仮に之を三分し、明治元年より十年に至るを第一期とす。兵事多くして即ち創業時間なり。
十一年より二十年に至るを第二期とす。第二期中は尤も寛容なる時間にして、内治を整ひ民産を殖するのは此の時にあり。
利通不肖といえども、十分に内務の職を尽さんことを決心せり。
二十一年より三十年に至るを第三期とす。
三期の守成は、後進賢者の継承修飾するを待つものなり。利通の素志かくの如し。
此の故に第二期中の業は深く慎を加え、将来継ぐべきの基を垂るるを要す。湖水疎鑿、移民開拓並びに大隈川通船等の事業十分其の必成を期し、鹵莽失敗して民を苦しめ、国を害するの惨状あらしむべからず。
目的を三十年に定め、第二期中創為する所の業は、満期に至りて全備せんこと希望に堪へざるなり。
此の精神たるや独り地方長次官に止まらず、属官といえども枢要のちに建つものには篤く貫通せしめ、上下戮力至誠運籌せんことを欲す」
「某 出仕未だ遅からず、暫く止まれ、猶継ぐべきべきものあり」と。是に於いて止まる。
内務卿曰く、
「過ぐる日離宮に於いて殖産のこと已に談示に及びたれども、其の意を尽くさざる処ありて、地方官の貫徹せざれども、今朝の面晤は幸ひなれば、意中残らず告げんとするなり。
そもそも皇政維新以来已に十ケ年の星霜を経たりといえども、昨年に至るまでは兵馬騒擾、
不肖利通内務卿の職務の挙がらざるは恐縮に堪へずといえども、時勢已むを得ざるなり。今や事漸く平らげり。
故にこの際勉めて維新の誠意を貫徹せんには三十年を帰するの素志なり。
仮に之を三分し、明治元年より十年に至るを第一期とす。兵事多くして即ち創業時間なり。
十一年より二十年に至るを第二期とす。第二期中は尤も寛容なる時間にして、内治を整ひ民産を殖するのは此の時にあり。
利通不肖といえども、十分に内務の職を尽さんことを決心せり。
二十一年より三十年に至るを第三期とす。
三期の守成は、後進賢者の継承修飾するを待つものなり。利通の素志かくの如し。
此の故に第二期中の業は深く慎を加え、将来継ぐべきの基を垂るるを要す。湖水疎鑿、移民開拓並びに大隈川通船等の事業十分其の必成を期し、鹵莽失敗して民を苦しめ、国を害するの惨状あらしむべからず。
目的を三十年に定め、第二期中創為する所の業は、満期に至りて全備せんこと希望に堪へざるなり。
此の精神たるや独り地方長次官に止まらず、属官といえども枢要のちに建つものには篤く貫通せしめ、上下戮力至誠運籌せんことを欲す」
第1期は内乱鎮静、創業の時期、第2期は民産の時期、第3期は後見に継承
ーーーー維新の誠意を徹底するには、30年の月日がいる。仮にこれを三等分するとし、明治元年から明治10年までは第1期とする。
この期は、兵事が多く、創業の期間である。
11年より20年を第2期とする。
第2期はもっとも寛容なる期間で内治を整え、民産を殖するのはこの時期である。
私はこの時期で十分に内務の職を尽くそうと決意している。
21年から30年を第3期とする。
第3期は守成の時期で、後進の賢者に継承してく。
大久保は、明治創業期を三期に分け、
第1期は内乱鎮静、創業の時期、第2期は民産の時期、第3期は後見に継承し発展の時期とし、第2期までその職務に付きたいと述べていました。
「これからは大いにやる」
やっと内戦が終わった後、大久保は、伊藤と大隈を呼び、下記のように語っています。
「今までは吾輩はいろいろの関係に掣肘されて、思うようなことができなかった。
君らもさぞ迷惑な因循な政事家だと思ったろうが、これからは大いにやる。
おれは元来進歩主義なのだ。大いに君らと一緒にやろう。」
(「大久保利通」(佐々木克/講談社学術文庫)大隈重信談)君らもさぞ迷惑な因循な政事家だと思ったろうが、これからは大いにやる。
おれは元来進歩主義なのだ。大いに君らと一緒にやろう。」
故郷を顧みずのイメージが大久保にはありますが、この言葉からも冷静な決断ひとつひとつの裏側には、久光や西郷、鹿児島の所々に対し、思う所があったのかと思います。
(→関連記事「大久保利通の呵責」)
廃藩置県の際にも、久光らに遠慮し、慎重な立場だったといわれますしね。
殖産興業をこれからどんどん進めていくという矢先に、死に倒れた大久保。
さぞ、無念だったと思います。
悲報は翌々日の16日のロンドンのザ・タイムズ紙にも取り上げられ掲載され、
その記事には
「大久保は日本の最近の台頭をもたらしたすべての改革の推進者であり、そのために旧態の擁護者から憎まれていた。彼を失うことは日本にとって国家の不幸である」
と書かれているといたそうです。
最期までお金にも清く正しかった大久保
また、この死後、日本の頂点にも近い人の遺産はどのくらいだ、と世間に注目されたといわれますが、実際、彼には8000円もの借金と僅かな現金しか残っていなく、
しかも、その借金は、
国の必要だけれど予算の付かなかった事業を行うために使われたもの
だったそうです。
「為政清明」を座右の銘とし、お金にも清く正しかった彼らしいエピソードです。
今の政治家にも習ってもらいたいものですね。
大久保の倒れた地の紀尾井坂の近くの公園には、彼の偉業を後世に伝えようとした、後輩たちが建てた哀悼の碑がひっそりと立っています。
清水谷公園の「大久保利通哀悼碑」
◆こんな記事も書いています
・岩倉具視は大久保利通の手紙の裏に「大久保の死を悼む気持ち」を書いて拝んでいた
・死の直前、大久保利通が持っていた西郷隆盛の手紙を紹介
・大久保利通が最期に書いた伊藤博文宛の手紙(絶筆)
・「紀尾井坂の変」関連リストはこちら
・サイトマップ
◆関連記事・リンク
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◆参考文献
・「近世日本国民史明治三傑―西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允」(徳富蘇峰/講談社学芸文庫)P51-52
・「大久保利通」(佐々木克/講談社学術文庫)大隈重信談 289P
・「薩摩のキセキ 日本の礎を築いた英傑たちの真実 」
西郷 吉太郎/西郷 隆文/大久保 利泰/島津 修久 (著), 薩摩総合研究所「チェスト」 (編集) 総合法令出版株式会社 258P
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