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2013-12-21

年表から大久保利通の歩みを知る

2013-12-21

この年表は、「大久保利通(佐々木克/講談社学術文庫/2004)」と「大久保利通 維新前夜の群像(5)」(毛利敏彦/中央新書/1969)を参考にしています。
(編集中)

年表から大久保利通の歩みを知る

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グレーの文字は主な事柄です。

◆◆◆ 年表 ◆◆◆


西暦(邦暦)年齢(数え)事柄
1830(天保元)年1歳8月10日薩摩国鹿児島城下高麗町に、藩士大久保利世の長男として生まれる。(※幼少の頃
1844(天保15)年15歳元服し、通称を正助、諱は利済と名乗る
1846(弘化三)年17歳藩の記録書役助となる
1850(嘉永三)年21歳4月8日父利世が、お由羅騒動(高崎崩れ)に連座し、座敷牢入り
利通も免職となる
10月4日父利世、沖永良部島(鬼界島?)へ遠島となる
1851(嘉永四)年22歳2月2日島津斉彬が藩主になる
近思録を輪読する会、のちの「誠忠組」の結集がはじまる
1853(嘉永六)年24歳5月謹慎を解かれ記録所蔵役となる
6月ペリー来航
1857(安政四)年28歳11月1日徒目付となる
12月早崎満寿子と結婚
1858(安政五)年29歳7月16日島津斉彬死去
9月安政の大獄
西郷隆盛は月照と入水、遠島となる
12月同志と突出計画を企てる、島津久光に接近をはかる
1859(安政六)年30歳7月7日長男彦之進生まれる
11月5日藩主愉書をうけ突出計画中止
この頃から、利通、岩下佐次右衛門を中心とした有志集団を「誠忠組」と称する
1860(蔓延元)年31歳3月3日桜田門外の変で井伊直弼暗殺
3月11日久光と初会見
閨3月勘定方小頭となる
1861(文久元)年32歳10月22日次男伸熊生まれる
11月御小納戸に抜擢、藩政中核に参画。家格は一代新番となる
12月28日鹿児島を経つ。始めての上京
この頃(12月15日〜1月中旬頃)、久光から一蔵の名を賜り通称を改める
1862(文久二)年33歳1月13日京都着。14日近衛忠煕(このえただひろ)近衛忠房(ただふさ)と面会。(※wikipediaに飛びます。)
公武合体論への協力(久光上京)について話し合う
3月16日久光一千の藩兵を率いて鹿児島発。上京公武周旋を開始
利通も久光に従い鹿児島発、京都へ向かう
4月9日兵庫の海岸で久光の処分に従うよう西郷を説得
4月23日寺田屋事件
利通、事件前の説得、事件後の始末にあたる
5月6日始めて岩倉具視と会う
5月20日御小納戸頭取に昇進
5月21日大久保、久光の周旋が実を結び勅許が降りる(「三事策」)
5月22日久光に従い京都発、江戸に向かう
大原勅使、江戸へ向かう
6月7日江戸着。幕政改革に奔走する
6月12日長州藩重臣の周布政之助らから接待(幕末の鴻門の会)
6月26日大原に対して老中殺害を示唆
(それを受け、大原は老中板倉と脇坂安宅に、勅命を受けることを説得)
7月6日一橋慶喜、将軍後見職に任命。7月9日 松平春嶽、政事総裁職に任命
8月21日江戸発。生麦事件。利通、藩士の鎮静にあたる
この事件に対する藩の見解としての報告書を作成
閨8月22日参勤交代制の緩和
9月7日鹿児島帰着
9月30日御用取次見習となる
12月9日鹿児島発。京都へ
12月25日京都発。江戸へ
1863(文久三)年34歳1月3日江戸着。松平春嶽、山内容堂に会い、将軍上洛延期を建言
1月9日江戸発、鹿児島へ
2月10日御側役(御小納戸頭取兼任)に昇進
3月将軍上洛
5月10日父利世死去
7月2日〜3日薩英戦争に参加
8月18日八月十八日の政変
(藩首脳部は京都滞在せず。利通は鹿児島で政変計画に参画(?))
9月12日久光に従い鹿児島発、上京
10月20日江戸で薩英講話にあたる
1864(元治元)年35歳1月参預会議開催
3月参預会議分解。公武合体運動行き溜まり
4月18日久光に従い京都発
5月9日鹿児島着
8月24日母ふく子死去。藩政改革に尽力
7月19日禁門の変
7月23日征長令
8月長州征伐不可の建言
8月5日馬関戦争
9月1日参勤交代制復旧
1865(慶応元)年36歳1月第1次征長終結
1月下旬〜5月頃利通と改諱する
1月25日鹿児島発
2月7日京都着(五卿問題、参勤交代について宮廷工作)
3月22日京都発
4月3日鹿児島着
5月21日鹿児島発
閨5月10日京都着(長州再征反対運動)
6月末京都発
7月8日鹿児島着
8月末鹿児島発
9月初京都着
9月21日長州再征勅許
9月24日京都を立ち、福井へ
長州再征勅許に反対
藩論を「割拠」(*)にすべしと藩首脳部に進言するため、利通の手紙を持ち西郷が京都を立つ
同様の内容を伝えるべく坂本龍馬を長州に派遣(薩長同盟の原点)
9月27日松平春嶽に面会
10月3日京都着
1866(慶応二)年37歳1月21日京都発
1月22日薩長盟約成立
2月1日鹿児島着
2月21日鹿児島発
3月初京都着(この頃からおゆうと京都の借家で生活)
4月14日大阪城で老中板倉勝静に長州征伐反対、薩摩藩の出兵拒否を伝える
6月7日第2事長州征伐。幕府軍と長州軍の戦闘開始
7月20日将軍家元死去
8月21日征長休戦
9月27日近衛家に家臣同様に出入りすることを許される
10月6日近衛忠房に慶喜の将軍宣下の延期を建言
12月5日徳川慶喜十五代将軍に就任
12月25日孝明天皇死去
1867(慶応三)年38歳1月9日明治天皇、践祚の儀を行い皇位に就く
1月兵庫開港をめぐる四候会議の画策をする
4月12日久光上京。慶喜から将軍職を剥奪すべきと建言
5月24日兵庫開港の勅許
6月22日小松、西郷と土佐の後藤象二郎らと会談。薩土盟約を結ぶ
8月14日小松、西郷と長州の柏村数馬と面会。武力討幕を背景とする新政府樹立の政変計画を打ち明ける
9月17日長州藩主父子に面会、武力討伐計画について話す
9月19日薩長両藩出兵協定を結ぶ
10月13日討幕の密勅を三条実愛から受け取る
10月14日大政奉還
10月17日京都発
10月26日鹿児島着。藩主に面会。出兵準備を進める
11月10日鹿児島発
11月12日土佐の山内容堂に面会、上京を要請
11月15日京都着
11月27日松平春嶽に面会し新政府創設について議論
12月6日岩倉、西郷らと王政復古の決行日を12月9日と決定
12月9日王政復古の大号令
小御所会議に出席
12月12日新政府参与に命じられる





(*)それぞれが自分の領地を活動の本拠点として勢力を張ること
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