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2017-09-24

大久保利通、西郷隆盛と心中!?決死の覚悟で挑む文久2年① 〜西郷帰還と薩摩出発まで

2017-09-24
今年、2017年9月24日は、西南戦争終結から140年、つまり、西郷隆盛没後140年の年になります。
そしてその2日後の9月26日は、大久保公の生まれた年。

そこで、今回は、西郷と大久保に焦点を当てた逸話について紹介します。



文久2年のこと。薩摩藩第29代藩主、島津忠義の実父である国夫の島津久光は、一千人の藩兵を率いて鹿児島を上京します。
この目的は、島津斉彬が死の直前成し得なかった公武周旋であり、朝廷、幕府、雄藩諸国の政治的提携(公武合体政策と幕政改革)でした。
後に「三事策」として、勅許を得、江戸に勅使を派遣、勅使随従を命じられ、幕府に「文久の改革」を実施させ、目的を達成しているのですが、ここでの紹介は、その途中の上京時の逸話です。




久光の一千人の藩兵を率いての挙兵計画

文久元年に、久光は率兵上京計画を企てます。

まず、久光が行ったことは、藩の人事改革でした。
当時藩政を握っていた、久光の父、島津斉興が安政6年9月12日(1859年10月7日)に亡くなったため、その腹心である島津豊後らを更迭。
喜入摂津を主席家老に、小松帯刀を御側役に、中山尚之介(中山中左衛門)、堀次郎(伊地治貞馨)と大久保一蔵を御小納戸役に抜擢しました。
この計画を実現させるために、久光にとっても大久保ら誠忠組はなくてはならない存在になっていたといえます。


御小納戸に昇進した大久保は、12月28日に鹿児島を立ち、初めての上京。久光上京のための周旋活動をします。
1月には、京都の近衛忠煕、近衛忠房と面し、公武合体論への協力(久光上京)について伝えました。

また、この頃、大久保はこの計画には西郷なくして成功はならないと考えていたようです。
西郷は、安政の大獄の際、幕府から身を隠すため、奄美大島に潜居していました。

大久保は、鹿児島に戻るとともに、西郷帰藩のために奔走します。
久光公へ嘆願しますが中々いい返事をもらえないため、中山尚之介に願い入れ、奄美大島から西郷を呼び戻すことを久光に説いてもらい、ついに西郷帰還となります。



大久保のこの計画への熱心さ

余談ですが、大久保はこの計画を実現させるため、とても熱心に順聖公の霊廟にお参りしています。

その数、100回にも及んだそうです。

また、成功して帰った際には、喜びのあまり3日間神仏に礼拝をしていたそうです。

藩祖の霊廟はもちろん、遠くにある楠公神社、その外、福昌寺、天満天神、楠公社、大中様、順聖様にお参りとあり、東上の際、高輪の大円寺に大久保家の四代前の墓があるのを探し回ってお参りしたともあるとのこと。

このくらい大久保はこの計画を成功させたかったという気持ちがあったため、西郷を呼び寄せる時も、同行へ反対した西郷への説得も、諦めることなくやったといえます。



西郷は計画を否定 久光を「地ゴロ」(田舎者)呼ばわり!???


西郷は鹿児島についた際、身元が荒れないように、西郷三助から大島三右衛門と改名しました。
大久保、中山尚之介、小松帯刀と四者会談。西郷は、今回の計画について聞きますが、久光が無官であることや江戸で過ごした斉彬と違い、

「地ゴロ」(田舎者)なので人脈がない

ことを理由に上京すべきではないと反対意見を述べます。

ちなみに、「地ゴロ」発言は、本当にその言葉で久光に直接言ったかはわかりません。
上下関係のきちんとしている薩摩藩なので、いくらはっきり物怖じしなく言う西郷でも、直接久光に伝えることはなかったのでは、と思います。


その後、久光にも対面し、同様の内容を述べます。

「そうして天下の事を尽そうとは、実に目暗蛇おじず」と強く反発。
西郷は、一旦は、同行を断ります。

久光と西郷の間に挟まれた大久保。

この計画には西郷の力が必要だと思っていた大久保は得意の粘り強さで西郷を説得し、運動協力に態度を変えさせました。
下関で待機する命を受け先発隊として出発します。



②に続く
②下関に到着、いなかった西郷


 
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